終活

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実は超難しいエンディングノート

今やエンディングノートが100円ショップでも購入できる時代になりました。 その10倍以上の値段で販売しているエンディングノートと内容的にどれくらいの差があるのでしょうか? 終活を推進している人たちは『エンディングノートを書きましょう』といい続けております。 私もその人たちから教わったので、同じように『終活を始めようと思っている人は、まず、エンディングノートを書いてみましょう』と偉そうに言っておりました。
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誰のための終活?

『自分には終活なんてまだ早いしヤル気もない』このように考えている後期高齢者(75歳以上)は多いと思います。 『自分が死んだときのための話なんて縁起が悪いし、まだまだ元気だし。葬式や相続も子どもたちが好きなようにしてくれたらそれでいい』と終活を避けている人が多すぎるのが現状です。
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延命治療について家族全員で話そう

延命治療とは、病気を治したり回復させるものではありません。 簡単にいうと、今の医療技術で死期をある程度引き延ばすことです。 ※延命治療を始めると、その治療を中止することはできないため、家族にはその判断が求められます。 親の命を『ここで終わりにしてよい』と判断をするのは家族(子どもたち)にとっても辛いことです。それは、たとえ親本人からそう伝えられていたとしてもです。
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親の財産、マジで知っとけ!

親の老後について、どれくらい考えていますか。 まだまだ親が元気なら、子どもの立場としては『まあ親が病気になったら考えるわ』と軽く考えている人が多いこと。 病気は予告してくれません。 来年、病気になります。2年後、癌が見つかります。3年後、認知症になります。など分かっていれば、それなりに準備も心構えも出来るでしょうが、残念ながらそれは誰にも分かりません。
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エンディングノートは終活の最終形か?

私は終活セミナーなどで『エンディングノートを書きましょう』とエンディングノートの必要性を伝えてきました。 しかし、そうは言ってもエンディングノートを書き上げることができる人は殆んどいません。 エンディングノートは書きやすいページから書き始めるのが定番ですが、その書きやすいページを書いたらそこで終わってしまう。他のページについては、手が進まない。そんな人が多く、エンディングノートをどうしたら書けるようになるのか、頭を悩ませる日々が続いていました。
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年齢(世代)によって優先順位を考える

終活といっても、やることは多岐に渡っています。 一般的には、生前整理、介護や医療、葬儀やお墓、相続などが挙げられていますが、それ以外にも細々としたことがあり、本人や家族が『これからの自分に必要だと思ったこと』は全て終活の一部だといっても過言ではありません。
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あなたは介護を受けますか?

人は誰もが年齢とともに老いていきます。 人生100年時代というフレーズが出回っていますが、仮に100歳まで生きるとしても90歳を過ぎて誰のお世話にもならず元気でピンピンしている人は超人の域に達しているのではないでしょうか。 90歳を過ぎて持病もなく、目もよく見えて耳もよく聞こえて髪の毛もフッサフサという人に私は出会ったことがありません。 誰にも必ず迎える人生最期のときは突然ですか、それとも徐々にですか…
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親の想いと子の想い

こんにちはセイメイです。親に終活をしてほしい子どもたち。一方、終活をしたくても始められない親たち。もしくは、終活など全くやる気のない親たち。でも、一番多いのは『もうちょっと先で』と思っている親たちではないでしょうか。親にも子にも、それぞれの...
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終活から見つける老後の趣味

若かりし頃の趣味をずっと継続して老後でも続けられているいる人は、もうその道のプロに匹敵する知識・腕前かもしれませんね。 『昔は趣味でスポーツを良くしていたけど、腰が悪くなって…』というような辞めてしまった話はよく聞きます。 その他にも、 『学生の頃、楽器演奏が好きだったけど、就職してからは仕事が忙しくなって…』 『結婚して子どもが生まれてからは、なかなか旅行に行けなくなった』 『食べ歩きが趣味で全国の美味しい物巡りをしていたけど、健康診断に引っかかって…』 いろんな理由があって、過去に趣味として楽しんでいたことを辞めてしまい、老後の趣味に迷っています。と言う人が多いです。
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終活を始めるきっかけ作り

「人生100年時代だし、今から終活ってまだまだ早いわ」 とお考えの人は多いでしょう。 では、この人たちに「いつから終活を始めますか」と聞くと ①考えたこともない ②体力が衰えてきたら ③余命宣告されたら このような回答が多く返ってきます。 つまり、終活に必要とされる5つのチカラが充実しているようなときには『終活を始めようという考えなど起こらない』ということなのです。